【略略茶酔日記】園田努(maya ongaku)
「略略茶酔日記」は、茶葉を送ってその茶を飲んだ日の日記を書いてもらう、茶葉と日記の交換企画。茶葉の名前や説明は一切伝えず、自由に飲んでもらいます。日常の延長線上でカジュアルに茶を楽しむ「現代の茶の略」の実例を収集するシリーズです。
3月29日
晴れ、微風であった。
朝、家から徒歩で海岸へと向かう。中国茶器と熱湯を入れたポット、そして二種類の茶葉を、大きめの手提げに入れて肩から下げる。起き抜けの肢体には重い。日差しの角度が高い。頭皮が太陽に焼かれ、ほのかに匂う。ある民家の庭から、塀を超えて伸びる、桜の枝の下を、くぐってみる。まるで春だった。
高架下のトンネル歩道を抜けると、浜辺に着いた。光の差異で、目が暗む。徐々に青い海が立ち上がる。波は小さい。浜辺を見ると礫が円形に並んでいた。ミステリーサークルのつもりだろうか。砂浜に足を取られながら中心に行ってみる。なんとなく、この場所で茶を飲むことにした。
レジャーシートがなかったので、西向きの窓に掛けてある、藍染の帷を外して持ってきた。腰窓二枚分の布を並べると、ちょうどよく座れる大きさになった。靴を脱いで腰掛ける。布越しに柔らかく動く砂の感触と、温かみを感じた。肩が落ち、呼吸が深くなる。細い波の音が、遠くで鳴る。
ひと月ほど前から、朝の瞑想が習慣になった。長い間、苦手と思っていたものが、知らぬまに馴染んだりする。精神の深みには、可能性を主体とする ”蠢き” のようなものが隠れていて、時期をみて、ふと人生のサイクルに踊り出てくる。僕らが ”蠢き”を支配することはできない。彼らが気まぐれに、表層に上がってくる時を、ただ待つしかない。瞳を閉じ、海風をまつ毛に感じながら、そんなことを考えていた。
しばらくして、茶の支度をすることにした。中国茶器は、妻が僕の母親から贈られたものである。茶盤に、陶器の茶杯を置く。二種類の茶葉のうち、一つ目のパッケージを開けてみる。果物のような甘い香りがする。茶葉を茶壺の中に入れ、熱湯を注ぐ。立ち上がる湯気は、紅茶に近い香りがした。茶壺を覗くと、茶葉は膨らみ、湯は柿色に染まりきっていた。飲み頃だろうか。
茶杯を啜る。まず苦味がきて、舌に馴染む。甘い香りは丸みを帯びて、つつましく居る。美味しくて、何度も注ぎ、飲んでしまう。舌根に苦味が蓄積していくが、それが心地よい。
茶を飲みながら「茶を聴く」という言葉が浮かんだ。音楽を生業にしていると、生活の中で起こる出来事と「聴く」という行為を、すぐに結びつけてしまう。浜辺に座る僕の内側で、小さく巻き起こる茶酔の中で、「茶を聴く」ということについて考えてみたい。
その前に、二煎目を淹れる。色は柿色のまま、ほとんど変わらない。苦味が遠のき、甘さが前に出る。二煎目の方が、正しい味という感じがする。飲み易い。舌根の苦味が胃に流れていき、甘味に置き換わる。
「茶を聴く」単純な方法として、茶を淹れ、飲み、憩う、という行為の中で生まれる、物理的な音響に関心を注ぐ、という茶の聴きかたがある。
水をやかんに入れる音。
ガスレバーを開ける音。
点火する音。
火が安定する音。
やかんの中で湯が動く音。
沸騰し、やかんが出す金音。
茶壺の蓋を開け、それを机に置く音。
茶包をひらく音。
茶葉を指で摘み、取り出す音。
茶葉を嗅ぐ呼吸の音。
葉を茶壺に落とす音。
茶壺に熱湯を注ぐ音。
飲み頃になった茶を杯に注ぐ音。
手で持ちそれを啜る音。
舌の上でお茶を均し、味を嗜む音。
茶の香りが鼻腔を抜ける音。
茶が喉を通る音。
茶によって閉じた気道が開く音。
再び呼吸を始める音。
そして、周囲のすべての物音。
簡単に考えられる音だけで、茶を飲むという行為には、これだけの音響がある。これらをできるだけ細かく、正確に捉えていくことは、「茶を聴く」という行為に少し近づくのではないだろうか。
三煎目で、色は一気に薄くなる。茶葉が少なかったのか、香りに潜らせた白湯のようだ。白湯ばかり飲んでいる僕は、このくらいが安心する。口内に味が残らない。心置きなく次の茶葉に進めそうだ。
ここで、ふと思いついた。飲んだ茶葉を再度乾かし、指ですり潰し、音を聴いてみる。飲む前の茶葉と音が変化していたら、それは音を飲んだことになるのではないだろうか。茶壺から、暖かく濡れた茶葉を摘み出し、浜辺の大きな石の上に並べて乾かす。茶葉が干からびたころ、古い茶葉と新しい茶葉とを指ですり潰し、耳を寄せる。明らかに違う。古い茶葉には、新しい茶葉が持つ音の張りがない。確かに、僕は音を飲んだようだ。
その茶葉を、茶杯一杯分の熱湯に沈め、飲んでみる。香り場の半分を、潮の香りが埋める。
二つ目の茶葉は、見た目も香りも大きく異なる。干からびて変色した豆の鞘のようで、白い産毛が立っている。香りはプーアルに似ているが、また違う。茶というより、花やハーブに近い。
初めての香りに興味が湧き、茶葉を多めに淹れてみる。飲み頃でも、茶は無色に近い。慎重に啜ると、口内を草花の美しい苦味が覆う。茶を飲んでいる、と単純には言えない。植物の官能をそのまま液体にして、飲んでいるようだ。
さらなる茶の聴き方として、茶の場の音響を整えるという方法もある。茶の文化ほど、その場の環境を整えることに尽力を注いできた文化はない。日本の茶室文化がその最たる例だろう。わざわざ、茶を飲むためだけの部屋を用意し、茶を嗜むために、さまざまな角度から五感を整える。例えば、その場で香を炊いてしまえば、茶の香りを嗅ぐ行為にとってはノイズとなり得るだろう。そうなると、音響に注意を払い、それを整えることは「茶を聴く」という行為に基づいているのかもしれない。状況によっては、無音が適しているとも限らない。適した音楽や、自然音を意図的に利用するという手もある。音楽家として、茶の場に適した音や音楽を想像してみるのも、興味深いと感じる。二煎目はやはり、まろやかな甘味が強くなる。そういうものなのだろうか。それに、口当たりが柔らかい分、奥行きをしかと確かめられる。盛りを過ぎた草花が、その生涯を折り返したような趣。茶を一煎だけ飲んでやめてしまうのは、罪深い行いなのかもしれない。
些か強引ではあるが、こういう茶の聴き方もある。それは、言語で分化される以前まで知覚を遡ってみる、という方法である。
台湾茶器には「聞香杯」という茶碗がある。漢字だけを読むと「香りを聞くための杯」であり、越境的な美しいメタファーを感じるが、そもそも中国語の「聞」には「聞く」と「匂いを嗅ぐ」の二つの意味が含まれている。つまり、ここでの正しい意味は「香りを嗅ぐ杯」になる。道教が生まれた国らしい、実にポエティックな言語表現だ。この「聞香杯」という言葉に着想を得て、あらためて「茶を聴く」という行為の可能性を探ってみたい。
知覚というのは、物理的に離れた器官を通して、我々の感覚へとアクセスする。鼓膜で光を感知したり、網膜で香りを感知することはできない。その理由は、情報自体が物理的に異なっているからに他ならない。光と音は、どんな知覚者にとっても完全に異なっている。
しかし、記憶の中のそれらを思い返すとき、複数の感覚が同時に立ち上がってしまうことがある。ある映画を思い出す時、嗅いだはずのない香りまでも感じられる。ある音楽を聴くと、過去の記憶が視覚的に浮かび上がる。そして僕らはそれを制御できない。これもまた “蠢き” の気まぐれのようだ。この緩んだ境界感覚は、「聞く」と「匂いを嗅ぐ」という知覚が分かれていない流動的な言語感覚と、緩やかな橋で繋がっている。
このように記憶を呼び覚ます時、脳が無意識に行う、感覚の再統合の中に「茶を聴く」という行為のあり方が存在するかもしれない。「聞香杯」という言葉は、その様相を一言で表している。
そんな考え事をしていると、茶酔いが回っていた。あるいは、茶酔いのおかげで、思考が加速しすぎていたのかもしれない。日差しのせいもあって、体温が高い。思考を休み、波の音を聴いていると、海に浮かぶ小さな船の上で、茶を飲んでいるようだった。少しずつ境界感覚が揺らいでいく。もしかすると、この感覚の先にも「茶を聴く」という行為の、もう一つのあり方が見出せるのかもしれない。ポットのお湯が切れてしまった。家に戻ることにした。茶酔いで、心は微風と共に揺らいだままだった。
園田努
音楽家。1997年、鎌倉市出身。音楽集団maya ongakuのメンバー。個人として、音や旅に関する執筆や、アートワークの制作も行う。
送ったお茶たち
① 岩茶・鉄羅漢 二号
② 茉莉針王